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【2024/11/21 16:29 】 |
「やってみる」についてエネルギー視点で考えてみた
今日、街の喧騒に身を漂わせていると、ふと気付いた事があった。
「やってみる」というのはもの凄い行動だな、と。
『これをしたらどうか?』という議論はとても大切だと感じているし、それ抜きで玉砕してしまう事も多いにあるだろう。
しかし実はみんな気付いている。「やってみなけりゃ分からない」という事に。

ビジネスに於いては、初めに小規模で計画を進めサンプルを取るテストマーケティングというものがある。その結果を、追加、若しくは本格的に投資するかの指標とする。
だがその「テスト=やってみる」という事すら出来ない方が想像以上に多く、その差が多くの自己啓発本で指摘されてるように、特にお金という面では今後の人生を大きく左右する。


どうしてそんな簡単な事すら出来ないのか

そう自己嫌悪に陥っている方もいらっしゃるだろうし、事実私もそうだった。

考え方を変えてみよう。
「やってみる」というのは、実は物凄くエネルギーを必要とするのではないか?

そういった事を指摘されてる方もいらっしゃる。砂を積んだ一輪車を動かすとき、最初が一番力が必要でしょ?という具合に。しかし決まってこう付け加えている。
『それさえ通過すれば、後は勝手に進んじゃうの。』

その最初の力が幾ら必要か、これについて丁寧に解説されたものを私は目にした事が無い。だから仰る事には同意出来るが、いざその場面に立つとその強大さに尻込みしてしまうのだ。
問題はその一行で簡単に説明された、「最初の力」がどれ程のモノかという事だ。そしてその描写の与える印象が、少し頑張れば手が届くというモノである限り、人は何度もそれに挑み、力の無さを悔やむだろう。

私はそれを、【『ハイ、やってみて』と言われて出来ないモノ】と定義した。
何かを動かすときはエネルギーが必要、これは高校生のとき物理で学んだ。

時として、大して意識もせず手応えも無く、すんなり始めの一歩を踏み出せてしまう事がある。それは単にエネルギーが溜まっていただけではないかと推察する。

これも物理からだが、位置エネルギーというものがある。
例えばAさんが標高600mの地点(私の実家の標高)で生活を営んでおり、Bさんが標高0mの都市に家を構えているとする。
AさんはBさんより位置エネルギーを持っている。Aさんが600mの地点からBさんの地点へダイブすると、彼は物凄い勢いでBさんの立派な家を破壊するだろう。
しかしAさんは、『あ~、私は位置エネルギーを沢山持ってるな~』と思って生活していない。

この様にいつの間にか溜まったエネルギーを、気付かぬ間に始めの一歩に使用している事がある。
そして「気付いていない」という事が、『何故前回は簡単に出来たのに、今回は出来ないんだ』と人を悩ます。

エネルギーには沢山の溜め方があり、力の作用にも様々な形がある。
長い間やってみたいと胸に秘め続けて来た想いであったり、企業に属していて「やらなければならない」という、ちょっと億劫になるモノだったり。それをするのが好きという事も当然あるし、もうそれをしない事に我慢出来ないという怒りに似たエネルギーもある。またそれは、チョコレートに依って齎される本来の意味でのエネルギーかもしれない。

因みに私は、「もう我慢出来ない」という臨界点を越えた瞬間ほど一瞬の力を発揮するモノはないと感じている。

現在閉塞感漂う日本で、何故新しいサーヴィスが頻繁に産み出されないかは、もう我慢出来ないというラインになかなか手が届かなくなっているからだろう。
これをしなければ明日はないという状況なら一般的に人はそれをするし、それは確かに辛く厳しい環境ではあるけど、人々の目を輝かさせる。
だから私は、「日本は或る種の完成を見た」と感じている。


どうしてこの一歩が踏み出せないのか?
そう塞ぎ込みそうになるときは、ちょっと思い出してみて欲しい。それは単にエネルギーが足りてないだけかもしれない。
そしてこれを、『エネルギーが足りないから仕方ない』という処方箋にせず、どうしたら必要なエネルギー、その莫大なエネルギーを調達出来るかという、リラックスの材料にして頂ければと思い、今回のエントリーを執筆した。

人生は無駄である。我々人類はただ地球を汚して消滅するのかもしれない。
では何故生きているか?
その無駄を沢山して、楽しむためではないかというのが、現在の所の私の見解である。
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【2010/09/29 04:31 】 | 徒然 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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