忍者ブログ
  • 2024.03
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 2024.05
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2024/04/25 04:14 】 |
自身を実験体として見た、ベーシック・インカムの未来
働かなくても生きて行ける程の餌を与え続ければ、例えそれがギリギリの生活だとしても、人間は腐る。
*腐る-食べ物が細菌の作用によって変質し、食べられなくなる。腐敗する。いたむ。

腐るとは上記を表すが、ここで言う腐るは、ただ生きているだけという無気力化である。
この状態に陥っているかどうかを知るには客観的視点が必要だが、その分野においてそれほど難しい部類ではない。自己嫌悪に陥っているなら、あなたはもう気付いているか、気付き始めているだろう。
これは今まさに、現在進行形で筆者が感じている心情である。

人類の基準、とまで大袈裟なことは言わないし、もしかすると筆者が特別怠惰な性格という可能性もあるが、これは大部分の人に当て嵌まるという感覚は、それほど外れていないだろう。

先に述べたように、腐るという感覚を覚えるまでは直ぐだ。しかし次の段階を経るには、少々時間を必要とする。
それは、このような想いをしているのは、養って戴いている恩を忘れて飼い主の責任だという根も葉もない恨み、それが誤りだと気付くことである。ここに至る際はもう一段階檻を拡げて、少し上空から自分を眺める必要が出て来る。

さて表題についてだが、ベーシック・インカムには、この生かさず殺さずに近い状態を創出する可能性が大いにある。それも一国の国民すべてを巻き込むという、大変な規模のものだ。
与えられることが当然、また飼い主クラスも同様に享受出来ることから、心境に若干の違いは生まれるかもしれない。
しかしそれでも、筆者のような順序を辿るものが続出するのではないかと推察する。
これは大変時間の無駄である。

人間は論理・効率的に動かない。もしその様に設計されているのなら、生まれた瞬間から夢を携え、一心不乱にその為だけに人生を全うしただろう。我々は無駄から学び、だからこそ時間は尊く、だからこそ同じ人間同士で差が生まれるのである。
果たして算数・国語のように、「飼い主を恨むのはお門違いですよ」と全国民へ自主的に気付かせる為の政策を、施行する必要があるかという問に対しては、甚だ疑問である。


無駄な管理業務を撤廃することに依り、本来掛かったであろう人件費を国民へ還元、若しくは別の政策の費用に充てるという試みは、素晴らしいシステムと感じている。
今回筆者が述べたのは、人間は凡そ思ったとおりに動かない、何故社会主義が失敗したのかということに他ならない。
PR
【2011/06/14 08:11 】 | 政経 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
「やってみる」についてエネルギー視点で考えてみた
今日、街の喧騒に身を漂わせていると、ふと気付いた事があった。
「やってみる」というのはもの凄い行動だな、と。
『これをしたらどうか?』という議論はとても大切だと感じているし、それ抜きで玉砕してしまう事も多いにあるだろう。
しかし実はみんな気付いている。「やってみなけりゃ分からない」という事に。

ビジネスに於いては、初めに小規模で計画を進めサンプルを取るテストマーケティングというものがある。その結果を、追加、若しくは本格的に投資するかの指標とする。
だがその「テスト=やってみる」という事すら出来ない方が想像以上に多く、その差が多くの自己啓発本で指摘されてるように、特にお金という面では今後の人生を大きく左右する。


どうしてそんな簡単な事すら出来ないのか

そう自己嫌悪に陥っている方もいらっしゃるだろうし、事実私もそうだった。

考え方を変えてみよう。
「やってみる」というのは、実は物凄くエネルギーを必要とするのではないか?

そういった事を指摘されてる方もいらっしゃる。砂を積んだ一輪車を動かすとき、最初が一番力が必要でしょ?という具合に。しかし決まってこう付け加えている。
『それさえ通過すれば、後は勝手に進んじゃうの。』

その最初の力が幾ら必要か、これについて丁寧に解説されたものを私は目にした事が無い。だから仰る事には同意出来るが、いざその場面に立つとその強大さに尻込みしてしまうのだ。
問題はその一行で簡単に説明された、「最初の力」がどれ程のモノかという事だ。そしてその描写の与える印象が、少し頑張れば手が届くというモノである限り、人は何度もそれに挑み、力の無さを悔やむだろう。

私はそれを、【『ハイ、やってみて』と言われて出来ないモノ】と定義した。
何かを動かすときはエネルギーが必要、これは高校生のとき物理で学んだ。

時として、大して意識もせず手応えも無く、すんなり始めの一歩を踏み出せてしまう事がある。それは単にエネルギーが溜まっていただけではないかと推察する。

これも物理からだが、位置エネルギーというものがある。
例えばAさんが標高600mの地点(私の実家の標高)で生活を営んでおり、Bさんが標高0mの都市に家を構えているとする。
AさんはBさんより位置エネルギーを持っている。Aさんが600mの地点からBさんの地点へダイブすると、彼は物凄い勢いでBさんの立派な家を破壊するだろう。
しかしAさんは、『あ~、私は位置エネルギーを沢山持ってるな~』と思って生活していない。

この様にいつの間にか溜まったエネルギーを、気付かぬ間に始めの一歩に使用している事がある。
そして「気付いていない」という事が、『何故前回は簡単に出来たのに、今回は出来ないんだ』と人を悩ます。

エネルギーには沢山の溜め方があり、力の作用にも様々な形がある。
長い間やってみたいと胸に秘め続けて来た想いであったり、企業に属していて「やらなければならない」という、ちょっと億劫になるモノだったり。それをするのが好きという事も当然あるし、もうそれをしない事に我慢出来ないという怒りに似たエネルギーもある。またそれは、チョコレートに依って齎される本来の意味でのエネルギーかもしれない。

因みに私は、「もう我慢出来ない」という臨界点を越えた瞬間ほど一瞬の力を発揮するモノはないと感じている。

現在閉塞感漂う日本で、何故新しいサーヴィスが頻繁に産み出されないかは、もう我慢出来ないというラインになかなか手が届かなくなっているからだろう。
これをしなければ明日はないという状況なら一般的に人はそれをするし、それは確かに辛く厳しい環境ではあるけど、人々の目を輝かさせる。
だから私は、「日本は或る種の完成を見た」と感じている。


どうしてこの一歩が踏み出せないのか?
そう塞ぎ込みそうになるときは、ちょっと思い出してみて欲しい。それは単にエネルギーが足りてないだけかもしれない。
そしてこれを、『エネルギーが足りないから仕方ない』という処方箋にせず、どうしたら必要なエネルギー、その莫大なエネルギーを調達出来るかという、リラックスの材料にして頂ければと思い、今回のエントリーを執筆した。

人生は無駄である。我々人類はただ地球を汚して消滅するのかもしれない。
では何故生きているか?
その無駄を沢山して、楽しむためではないかというのが、現在の所の私の見解である。
【2010/09/29 04:31 】 | 徒然 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
全ての人に公平な教育(電子教科書)の真の狙い
※こちらはアゴラ様へ7月27日付でご掲載頂いたエントリへ、加筆・修正されたものです

アゴラ:全ての人に公平な教育(電子教科書)の真の狙い-斎藤隆博


広島県と島根県の県境に位置する僕の母校、今は廃校となってしまった小学校
は、在籍当時、全校生徒が最も多い年度でさえ26人という規模であった。その
為、複式学級が採用されていた。複式学級とは、“1・2年” “3・4年”“5・6年”の
様に、複数の学年を1クラスと置くものだ。

小規模の学校では意見の多様化が生まれないというデメリットもあるかもしれな
いが、僕はあれはなかなか良い環境だったと感じている。

1.生徒一人当たりに費やせる時間が増える
これは昨今議論されている事であるが、1クラス40人はどう考えても多過ぎる。
40人全てに行き届いた教育を提供するのはほぼ不可能だろう。不可能かどうかは
先生方個人の力量に依る所もあるので一概には申し上げられないが、多人数クラ
スの方が生徒一人一人の理解度が下がってしまう事は容易に想像できる。

例えば40人と10人のクラスに同じ質問を投げ掛けたとしよう。通常どちらのクラ
スがその質問から解答にたどりつけない子の人数が多いか。もちろん 40人のク
ラスだ。そして不思議な事に、質問者が多い40人クラスの1時間目の算数の時間
は、10人クラスと同時刻に終了のチャイムが鳴る。

確かに1人目の質問で、解答に至るプロセスは理解出来たかもしれない。だが人
数が増えれば“どうわからなかったか”という道筋も同時に増えるため、答えはわ
かるが納得の行かない子供がまた一人産み出される。

2.発表することへ慣れる、自ら考える
1の様な状況が続けば、生徒は次第に“1つの問題には2人までしか質問できない”
という暗黙の了解を作り出してしまうかもしれない。もしかすると“似たような
質問はしないでね”という空気を、先生自らが知らず知らずのうちに発してしま
うということも起こりうる。
そうして”街”らしい「ハイッ」の声が少ない授業が形作られていく。

一方“田舎”では、相変わらず自分のための質問時間は、1クラス10人として、最
低5問に一度は訪れる。また解答に至った者に関しても、「ハイッ」と言って発
表しなければいつまでも次の問題に移れない可能性があるため、なかば強制的に
発表の機会を享受することとなる。クラスに40人もいないので、「お前が発表し
ろよ」と、そもそもなすりつける相手も少ないのである。

もう1点、これは主に複式学級からの僕の経験であるが、問題を黒板に書き記す
と、通常先生は隣の学年の方へとあっさり背を向けてしまう。つまり別の学年の
問題を先生が黒板へ書いている間が、僕たちに与えられた解答タイムであった。
それは分かる子にはある程度余裕のある時間であって、またその子が他の同級生
と一緒に問題を解くのにも十分な時間であった。余程の問題でない限り、分かる
子にとってはもちろん、普段一人で解答へたどりつけない子にとっても先生は不
要となるのである。

1によって2が起こり、それは社会に出た後も必要となるであろう学習の姿勢へと
つながっていく。彼等の学習スピードは、総じて一般の子供達より早い。事実中
学に進んだ際、僕の小学校時代の同級生は平均して“頭が良かった”。また中学か
らクラスの人数は増えたが、生徒同士による議論の場の形成に慣れていたため、
彼らがリーダーとなり、クラス全体に行き届いた教育を提供する手助けになった
ことは、恐らく事実であろう。

さて、前置きはこのあたりにして、これがどう電子教科書と結びつくかについて
述べたい。皆さんには今年5月28日、日本でも『iPad』の販売が開始されたこと
は記憶に新しいかと思う。電子教科書とは、つまり教科書の内容があの卓球のラ
ケットケースのような端末に全て収まるということである。また電子端末のた
め、音声・動画再生が可能となり、日本人が苦手とする英会話学習もその場で行
える。

中学のとき僕が感じたのは、“そもそも習っていることが違う”ということだ。人
間知らないものは答えられない。答えを覚えるだけの教育は僕も嫌いだが、現在
の試験というものがある限り、やはり答えを導き出す手順に触れておくことは重
要である。

通常僕らの地域では高校から受験が始まるため、受験勉強に触れるのは中学3年
からである。僕も例に漏れず、難関高校の模擬試験を購入し取り組んだ。しかし
その中のいくつかの問題に、当時僕が初めて目にしたものがあり、ある問題では
検証を重ねた末解答にたどり着いたが、すでに1時間が経過していた。たとえ答
えを導き出せても、時間制限のために落第するのである。

電子教科書、またそのプラットフォームが普及すれば、この“習った時期の違い”
という問題を軽減できる。というのも、もし彼の手元に全ての問題集があり、か
つ彼に難解な問題への関心があれば、間違いなく一度はそれを開くだろう。

これは僕の育った環境から田舎擁護となってしまうが、田舎には圧倒的に情報が
少ない。現在やっとADSLによるインターネットへの接続サービスを利用できるよ
うになったので、その状況は徐々に変わっていくのかもしれないが、僕にはあの
田舎のおじさんたちが子供にパソコンを扱わせる日は、まだまだ遠いと思えて仕
方ない。

そもそも教科書は同じという方もいらっしゃる。確かに街に住んでいようが、田
舎に住んでいようが、公立の学校なら同レベルの学習が可能なのかもしれない。
だが東大の入試問題は、その学習範囲内からは通常出てこないだろう。つまり比
較的レベルの高い学校の入試問題とは、始めから公立学校で習う範囲外の+αを
想定して作成されているということである。

更に、「でも通信教育があるじゃないか」というお声をいただいた。それはご
もっともなのだが、何故(なにゆえ)電子教科書端末が1つあればその全てを詰
め込めるかもしれないのに、わざわざ紙を媒体としてその体積/重量を増やさな
ければならないのか。

それによって、本来ダイレクトにエンドユーザーに届けられるはずの教材に多数
の仲介業者が割り込み、結果彼らの商売を助けている。農業補助金に関しては
「農家へのバラマキだ」「非効率だ」と叫んでいる方が、どうして教科書が手元
に届くまでのプロセスに目が向いていないのか、はなはだ不思議で仕方ない。

総務省が主導となり原口一博大臣が提唱し、ソフトバンクの孫正義氏などが実現
のために具体的な提言をしている『光の道』 *1 は、この電子教育プラット
フォームとすこぶる相性が良い。“第二の孫正義”を立てようとしていることから
も、僕は孫氏がこの叩き台を示した真のねらいは、田舎の考える力を持った子供
たちに向けられているのでは、と感じた。

*1:2015年ころを目途にすべての世帯でブロードバンドサービスを利用する社会
の実現を目指す施策。
「光の道」構想実現に向けて-基本的方向性(案)- 『総務省』 参照
http://www.soumu.go.jp/main_content/000065889.pdf

他方、池田信夫氏が『アゴラ』内で言及されたように、田舎に存在しないサービ
スを受けたいなら都会に来れば良いという考えは実に正論だ。

ブロードバンドは全世帯に必要か
http://agora-web.jp/archives/1008867.html

たしかに電子教科書がなくても、自ら進んで学習しその道を切り拓く者はいる
し、僕の場合も「早く参考書を買っとけ」ですんだ問題である。だが我々は、そ
ろそろその投資にどれほどのリターンが返ってくるかを検証しなければならない
のではないか?

光の道は平等ではない。
僕もそう感じるが、その平等ではないという対価を払って返ってくる 利益-優
秀な人材 は、今日本が最も欲しているものなのだから。
【2010/07/29 16:59 】 | 活動 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
2010年07月、参院選を通じて感じた事
もし、日本が出来たばかりの国で、これからみんなで国造りを始めようという状況なら、果たしてどんな政策が有効か?


この視点から各党のマニフェストを見比べた方はいらっしゃるか?これは、これまでに構築された既得権等を無視出来る理想論であるが、『本来政治ってそういうもんじゃない?』と思ってしまうのだ。確かにある程度の「しがらみ」は残ってしまうだろうけど、それを最小化する事が如何に重要かは、今更論じる必要もないだろう。

つまり逆算的に理想国家をまず造り、それと見比べて不必要なものを徐々に排除する、まさにAppleが自社製品に行っている改革である。これが世に言われている構造改革・・・果たしてそうであろうか?矢張り現在の構造改革でさえも、「仕方ない」という空気が漂っていやしないだろうか。

そう言った意味で僕は、現在の日本は美しくないと感じる。
当ブログが建国物語と冠しているのも、これに依る。


さて、ではどうして近年、構造改革が声高に叫ばれているのか。それを行わなければ、日本がヤバい、牽いては自分自身・周りの者の生活が困窮するという、肌感覚に似たモノがあるだろう。これに関して現在筆者も、果たしてどうヤバいのか、実は明確に示す事が出来ない。ただこの「ヤバい」という感覚は日本国民の確信に変わりつつあるので、近い将来、望まなくても実現されるであろう。


僕は一つ、ある提案をしたい。
どの政党を支持するかは、その政党がどれだけ自分にとって有益な政策を提示してくれるか、それだけを比較して選択するというものだ。

消費税増税?
→ そんな事されたら食費が余分に掛かる

社会福祉の強化?
→ そんな事したら遊ぶ金が減る
→ それをしてくれれば、現在高齢の私は非常に助かる

と言った具合に。

若肉老食

こんな言葉が、近頃世間の波間に漂っている。
老人がお金を貯め込み、若い世代がひもじい想いをしていると。
老人が貯め込んでいるお金を若い世代に流せと。

違う。違う。
そんなのは問題じゃない。

問題は若い世代の我の弱さだ。
老人が迷いなく、将来の日本なぞ知った事かと、自身に有利に働く政党を支持する中で、若い世代は『でも将来を考えると』なんて迷いながら、滅私奉公で将来のための政策を支持する。

これで勝てるものか。

アイデンティティー、プライバシー問題が取り沙汰される現在で、何を、蓋を開けてみれば我が強いのは老人であったという茶番だ。

僕は何も老人が悪いと皮肉ってるワケではない。
自身に有利に働くモノを迷いなく選択するというのは、謂わば当たり前の事だ。

『モラルはないのか?』

モラルがそれほど問われる問題でもないだろう。若い世代にしたって、これから確実に訪れるであろう20年後を見越して、実は自分が可愛いという想いから始まった行動に過ぎない。

そろそろ自覚するべきだ。
我々ワカモノは、圧倒的に不利な状況に立たされている事を。
我々が叫ぶ「将来の為の増税」、この社会企業的な美しい精神を老世代が理解してくれれば、理想の国が実現するという幻想をぶち壊す事を。

先も述べたがこれは美しい精神ではなく、我々ワカモノの為の政策なのだから。
思っているよりもこれは、そう、戦争なのである。


もう一点。
とても気になる感覚がある。
どうも皆さんの視点が、現在から観た未来に偏り過ぎている事だ。

将来30年後に現在の日本を振り返ったとき、『何でこんな事をしているんだろう?』という事が山程ある。
今を起点に始めるな。現在の状況を考慮すると仕方ないという言葉を捨てろ!
だって若者は皆、将来の自分の為に、改革を支持しているんだろ?
【2010/07/17 03:16 】 | 政経 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
iPad2の可能性
以前も申し上げたが、僕にとって現在のiPadは、「iAdの為の場所」という認識だ。
何故ならそこにある機能の殆どは、現在のPCに搭載されており、
ゲーム機と見るなら素晴らしいと推察するが、ビジネスのツールとしては弱いだろう。

で、最近iPadが「残念なプロダクト」だという批判が多い。
その方々がどういう心境でそう仰っているかは不明だが、
そのご意見には完全同意する。(使用してもいないのにw)

ただ、iPadは「魔法のデヴァイス」と宣伝してしまったばかりに、
いきなり素晴らしい物が手に入ると思い込み、落胆してしまった方が多いと思う。
今回はそんなあなたの判断は決して間違っていなかったと、
iPadに追い風を吹き込みたい。


■ver 1.0では仕方無い



追い風と言いながらいきなり批判するが、
『ver 1.0だと仕方ないよね~』というご意見はどうかと思う。
それは全てのデヴァイス、サービスに言えてしまうからだ。

iPadの何が凄いって、もうそのレイアウトを見ただけで、
『今後この様な機能が付加されるのでは?』というのが簡単に想像出来る事だ。
ただ大口叩いておいて、実はまだ1つしか「これは!!」というのは思い付いていない(汗;
今回はその数少ない貴重なアイデアを披露する(笑)


■photo-shop for iPad



web制作に携わっている方なら、かなりの方がピンと来るのではなかろうか。
それは従来のphoto-shop(以下、PS)とは、似ても似つかぬものになる可能性がある。
※Appleとadobeが険悪の様なので、特にPSでなくとも良いw

これは僕の経験に基づくものなのだが、web制作で画像処理はかなり面倒だ。
画像毎にトリミング(切り抜き)する部分が違うし、何よりその作業にマウスは不向きだと感じる。

例えば画像を切り抜く際、指でなぞるだけで良ければどうだろうか?
またPSの画面にチェックボックスがあり、そこにチェックを入れておけば、
画像をタッチしただけでサイズ変更された画像が一定の場所に複製される。

デスクトップだろうがノートPCだろうが、恐らくこの機能は付加出来る。
しかしiPadとの決定的な違いは、画面が少なくとも宙に浮いているという事である。
画面に直接触れるなら、それは床と平行に近い角度で置けなければならない。
腕が疲れるから。

ノートPCの画面も最大角まで倒せば同様の事が可能であるが、
想像してみて欲しい。
どう考えてもキーボードが邪魔だろう。

更に言えば、指でランダムに描いたものをコンピューター側で制御し、
形・サイズを整える機能も付加したい。
重要なのは感覚で描いたレイアウトと、制御されたレイアウトを選択出来る事だ。
高価な「マリオペイント」みたいなイメージ。

大体マウスで画像背景を「多角形選択ツール」でカチカチするのは本当に面倒だ。
と、愚痴まで零してしまったが、iPadはweb制作時間を大幅に短縮する可能性を秘めている。


■インターフェースの進化



インターフェースがより進化すれば、画面に直接ペンで書き込んだ文字を、
更にハッキリと表現する事が可能だろう。
最終的には筆で絵を描くことも出来るかもしれない。
ここまでPSの機能に盛り込まれるかはiPad2の出来次第だが、
少なくとも上で述べた事に関しては、アプリケーションやOSのアップデートで可能だろう。

これに依り何が起こるか?

『iPadはコンピューターの近寄り難さを取り除いた』と仰る方が多い。
ただし現段階では、
「おじいちゃんでも出来るネットサーフィン」止まりではなかろうか。

僕の考えるiPadが登場すれば、
「おじいちゃんでも出来るweb制作」なんて楽勝だと思う。
しかし本当に期待しているのは、申し訳ないが高齢者ではない。

もし赤ん坊の頃にもっと自由に表現が出来れば、
その当時何が見えていたか分かるかもしれない。
写真は素晴らしい技術だけど、その思考まではなかなか写し出さない。

そういう意味で、iPadは人類を知るという
正に「魔法のデヴァイス」となる可能性を秘めている。


現在iPadに何が足りないか?
「それにしか無い機能」だろう。
もしweb制作の時間を大幅に短縮する事がiPadでしか出来ないなら、
『騒がれてるけど実際あんま売れてないよね』
この様な声は聞こえて来なくなるだろう。

今回提示した機能は、もしかすると既に使われ始めているのかもしれない。
タッチスクリーン、若しくはiPhoneを目にした瞬間それを思い付いた方は恐らくいる。
しかし僕は、iPhoneの小さな画面ではこの様な機能は思い付かなかったし、
「デカいiPod」はその効果もデカかったのではないかと、
改めてiPadを評価し直している。


p.s.(photo-shopではない)

因みに現在僕はプログラミングを独学で勉強し始めた。
「僕が提示したiPad」がまだ世に登場してないとしても、
恐らくそれは誰かが作ってしまうだろうし、
僕はそのスピードに追い付けないだろう。
しかしその誰かも『誰かが作るだろう』と思っているはずだ。

iPadが「残念なプロダクト」かどうかは、
今後の、正にユーザー自身の不満から生まれる開発が証明してくれる。
その開発者は僕かもしれないし、あなたかもしれない。
【2010/07/15 21:52 】 | 徒然 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
| ホーム | 次ページ>>