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今回は触らぬ神に触れてみようと思う。
恐らくこのテーマは、深い知識のある人や彼等を取り巻く環境を専門とする人以外は、なかなか触れたがらないだろう。 一種の「タブー」と言ってもよい。 五体満足で彼等のためとなる様な案を出せば「偽善」と言われるし、逆に差別用語でもないのに「身体障害者」と書けば「差別」と認識される。 僕は「身体障害者」を差別用語と思っていなかったため、始めの内はそれをタイトルにするつもりだったが、やはりそこから無言のメッセージを受けたので変更した。 その姿勢が差別と言われる方もいるが、それを言い出すとキリがないので「そういうもの」だとして置いておこうと思う。 さて、では何故わざわざそこに触れようと思ったかだが、それはウズベキスタンと日本の環境の違いに触発されたためである。 医療環境が整っていないという原因もあるだろうが、ウズベキスタンでは身体障害者の方を街中でよく見掛ける。単に「骨折した若者」という場合もあるが、日本では右手を首から吊って街を闊歩する若者なんて、それ程多くは見掛けない。 もちろんウズベキスタンでも、人々が頻繁に骨折するなんてことはないから同様のことは言えるのだけど、それにしても目にする機会は多いと思う。 また右足を切断された方や、両足を持たず車椅子で外出される方などもよく見掛ける。 右手を吊った若者は対象外だが、車椅子で外出される方の多くは施しを受けるため外出される方が多い。 僕はこちらではジプシーと言われる、五体満足で路上に座り込み、人々が目の前を通るとお金を要求する人々には殆どお金を渡す事はないが、身体障害者の方がそれを求めて来た場合は、少額だがお金を渡す事にしている。 これは友人の姿に共感したためだ。そこには「偽善」を挟む余地もなかったし、ウズベクの人々は日本と比較した場合それを当たり前に実行する。 どうしてその違いが起こるのだろう? 僕はこれまでの文化、宗教が深く関わっていると推察する。 困った人がいたら助ける。 これはこの国では、僕はもう何度も「見せられて」きた。 日本では女子高生に当たるかわいいロシア人の女の子が、地下鉄でお年寄りに席を譲るのだ。 僕が目にしたその子は遠慮する老人に執拗に席を譲り、そして目的を果たした。日本なら一年に何回それを目に出来るだろうか。 一瞬で恋をしてしまいそうな光景だった。 またもう一点。 先に「車椅子で外出される方の多くは施しを受けるため…」と述べたが、欲しい物を欲しいと言える環境が整っているという事だろう。 日本で外を歩いていて、果たして一日何回『お金を恵んで下さい』と言われるだろうか。 『日本だろうが欲しい物は欲しいと言えばいいじゃん?』 『そんなの自己責任でしょ?』 と言うのは良く分かる。 僕も(拭けてないけど)自分のケツは自分で拭くのが大方正しいと思う。 でも日本は圧倒的に欲しいと言い辛い環境に仕上がってしまった、というのが僕の感想だ。 それは単にギプスをはめた若者すら、日本ではあまり見掛けない事からも分かる。 日本人に多く見受けられる「恥ずかしい」という感情だ。 社会保障というシステムは、この感情を保護する意味でも日本人には打って付けのシステムだ。 集めたお金を(ちゃんと)運用する事で、ちょっと増やす事さえ出来てしまう。 しかしよくよく考えてみれば、本当に助けて欲しいと思う人が受取る事が、そもそもの目的から考えると合理的なのである。 『そんな事言うと強欲な人がお金を持って行く』と思うかもしれないが、実は「そういう人かどうか」は意外と見抜ける。 僕がジプシーと言われる人々にお金を渡さないのは、そのような理由からだ。 だが、日本でその人が本当にお金を必要としてるかどうかを見抜く事は、ハッキリ言ってかなり難しいだろう。 日本人のその部分に関するモラルは、間違いなくウズベク人より欠けている。だから隠すのが上手なのだ。 ウズベキスタンではそもそも身体障害者であったとしても、必要無い人はお金を要求して来ない。 僕はウズベキスタンに来てからかなりの時間、『どうしてこの国の人はこんなに笑顔が絶えないのだろう』と観察して来た。 現在はまだ恐らく、という段階だが、言いたい事を言える環境のせいだと感じている。 日本のように要求する事が難しい環境では、誰が何を考えているか伝わり難い。 その分確かに「空気は読める」ようになったかもしれないが、いくら読んだところで100%の確信は持てない。 そして相手が何を考えているか分からなくなると、疑いが生まれ、感情を全て解放する前に扉は閉まり、閉塞感が漂う。まさに負の感情のスパイラルだ。 お年寄に席を譲る際、『うわ~、あの人カッコ付けてる』と思われる事を気にしてイチイチ勇気がいるなんて、そもそも笑い話だ。 社会保障だけでは生活が苦しい方が、まだまだ沢山いる。 寄付をしろ。というのではなく、何年掛かるか分からないが、まずはお年寄りに席を譲ってみては如何だろうか? 砂漠にいくら水を注いでも、残るのは乾いた砂だ。先ずは環境を変えるべきだろう。 そして席を譲られた方に憶えておいて欲しいのは、 それは『当たり前』だし『誇っていい』という事だ。 PR |
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