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一昨日(2010/05/28)、遂に日本でもiPadの販売が開始された。
世間の皆さんが口を揃えてその端末を絶賛する中で、未だにiPad、iPhoneさえも所有しない筆者がその素晴らしい賛辞に水を差すエントリを届けたい。 ※あくまでもiPadとはこんな物だろうと想像しながら書き連ねます 1)iPad帝国が10年続くと、世界も10年止まる 産まれたばかりの子に鞭を打つような物言いだが、僕には今世間を賑わせているiPadが危険に見えて仕方ない。 恐らく先日iPadを手に入れた方は、今とても満足されている事と思う。素直にそれは羨ましい。 【僕は今、時代の先端を知る術を手に入れた】 この様なご意見にも反論はしない。 しかしどうやら世間には、『ここで一旦腰を落ち着けるか』という空気が蔓延している様子だ。 それはこの先にまだまだ潜んでいる技術の進歩を遅らせる事になるのではないだろうか。 iPadが21世紀最大のツールとまで迷信してしまっている方すらいる。 僕が抱いている何とも言えない感覚については、最後に譲る事とする。 ここから暫く、iPadの持つ可能性と弱点について言及していく。 2)そもそもiPadはビジネスマンにとって必要か? これは以前から自身に問い続けて来た質問だ。 機能の面でいえば、iPadに出来てパソコンに出来ない事はないだろう。 何故パソコンが爆発的に普及したかは、それは情報化社会に於いて無くてはならない物、それさえあれば様々な作業を簡素化出来たからだ。 iPadについても同じ事がいえるはずだが、それは単に選択肢が広がったというだけで、業務上、さして新しいモノを運んで来てくれるとは思えない。 また『仕事も出来るよ』という声は散見されるが、『iPadの方がパソコンよりも仕事がし易い』という声は未だに聞こえて来ない。 3)iPadの優位点 操作性の面でいえば、どうやらiPadはパソコンよりも簡単に扱えるらしい。 つまりお年寄りから幼児まで幅広く操作対象とする。 すると何が起こるか? そこには新しい市場が形成される。 例えば小学生でも扱える電子教科書端末の参考、若しくはそれ自身になったり、お年寄りと若者を繋ぐ(家族間も含む)コミュニケーションツールともなり得る。 「2」の回答にもなるが、今後iPadがもたらす市場への進出を目論む方にとって、端末を熟知する事は極めて重要だ。持ち合わせておりませんでは済まされない。 しかし広義では、ビジネスマンにとってiPadはニンテンドーDSとさして変わらぬものとなってしまうのではなかろうか? 4)iPadから生まれる悲劇 僕は最近パソコンの前に座る時間が増えた。ブログを書いたりネットから情報収集するためだ。 その中には"必要でない時間"も多く含まれる。 これは僕がiPadに対して危惧している部分で、iPadは恐らくパソコンとは比較にならない程のエンターテインメント性を含んでいる。 誘惑に打ち勝つ方もいるだろうが、確実にiPadに依って時間を奪われる方は増える。 そしてそもそもiPadの誘惑に打ち勝つような方は、iPadは必要ないのではと思うのだ。 5)iPadの劣位点 iPadは大きい。あくまでもiPhoneと比較すればの話だ。 あのサイズの物を扱う場合、実は場所がある程度限られる。 電車に乗りながらふと思ったのだが、まず電車の中で使用する方は殆どいなくなるだろう。 あの揺れの中、両手を端末に委ねるのは不安だからだ。 車内で使用出来るのは座っている方、または壁にもたれている方に限られ、壁にもたれている方もギュウギュウの満員電車内では使用が困難となる。 同様の理由で歩きながら使用する方も少ない。 その困難さは携帯の画面を見ながら歩くのとでは比較にならない。運転しながら画面を見るなど、持っての他である!!(絶対出てくるけど) またiPadで通話出来れば電話はいらないと仰る方もいたが、僕からすれば「まさか!?」である。 その方は歩きながら通話する必要がないのだろう。 iPhone(iPod)がこれからも必要と僕が思うのは、上記の様な理由からである。 ただ小さくしただけであっても、実はかなり違うニーズも孕んでいるのである。 6)比較・総合 以上を踏まえて、iPadとは何か?をまとめておく。 ・iPadの何が優れているか 3でも述べた通り、iPadは新たな市場を産み出す可能性を秘めている。 それはパソコンとは異なり、近寄り難い物ではなくなった。 また机に置いて皆で共有できる事に依り、テレビとパソコンの中間を担うツールとなるだろう。 これは現在盛んに叫ばれているSNS(ソーシャルネットワークシステム)に多大な影響を及ぼす。 ・その他の端末との違い 5で指摘した様に、iPadを使用する場はノートパソコンより広く、iPhoneより狭くなるだろう。 確かにノートパソコンを出し入れするのは面倒だが、同じ喫茶店に行くなら大して手間も変わらないし(起動時間は大幅に短縮されるが)、またポケットに入らない、片手で操作出来ない時点でiPhone(iPod)とは似て非なる物となる。 7)この先に見える世界 結論から言うと、やはりiPadは時代の最先端を行く者には必要である。 これだけ否定しておいて何を今更という感じではあるが、今最も重要なのはどこでも出来るコミュニケーションであり、それはウィキペディアを見ても分かる。 単なる書き込みの群れが、時として百科事典すら凌駕する時代となった。塵も積もれば何とやらだ。 しかし、これで終わりだろうか? 本当に我々はあんなデカい物をこの先も持ち歩かなければならないのか? 僕はそうは思わない。 もう何年も前の映画から、ホログラムにより情報を宙に映し出すシーンが繰り返されている。 更に言えば、電極を直接頭に差し込んで情報を脳にダイレクトに送る事も可能になるとさえ、僕は思っている。 そんな時代が来れば、もうインターフェースなんてのは必要なくなるんじゃないか? 思考は現実化すると言われるが、もし世界中の人々がこの偶像化された未来のツールを終末と考えてしまえば、そこで世界が止まる。 今世紀は奇しくも人口が頂点に達するという説もある。 この最も可能性のある時代の一つに於いて、この目に見える端末に人々があまりにも狂喜乱舞する姿を、僕は素直に喜べないでいる。 PR |
遂にロードオブザリングと並び3作目に突入してしまった。
今回改めて考え直すに当たって、現在著名な方々が議論されておられる光の道とは、かなり複雑怪奇な問題だという事が分かる。 実は今回これを執筆する前段階の草案では、全く別の見解に達していた。 その中で私の結論は、【現在光の線が届いている90%世帯には光を普及させ、残りの10%世帯は無線でカヴァーする】というもの。 しかし本日、ソフトバンクの孫氏や池田氏が「一体何を議論しておられるのか」が分かってきた気がする。本日はそれを記したい。 ■「光の道派」と「電波の道派」で見られる、表向きの対立 1.速度の違い 2.トラフィック問題 3.コスト 4.メタル線撤廃に依る、田舎の固定電話 1.速度の違い これについては今までも大きく取り扱われて来なかった。 まず現在の一般家庭で1Gbpsの速度が必要かと言われれば、YESと言う方は殆どいらっしゃらないだろう。『あれば良い』と言われるのがオチだ。 2.トラフィック問題 私が一番拘っていた部分。 実はトラフィック問題がなければ断トツで「電波の道」を推していた。孫氏の提唱する「光の道」に少しでも寄りかかった理由の大部分はココだ。 また「電波の道」を声高に叫ばれる方々から、トラフィック問題についての明確な回答が無かった事も影響した。 3.コスト この部分について特に私から言える事はない。そもそも専門ではないので分からない。 孫氏がデタラメを言っているとは俄かに信じ難いので、国費0円で実現出来るという可能性は高いとさえ思っている。但し、「電波の道」なら掛かったコストを更に早期回収出来るだろう。 4.メタル線撤廃に依る、田舎の固定電話 池田氏が仰るように過疎地を「電波の道」でカヴァーすると、従来の固定電話が使用出来なくなる恐れがある。 というのも「メタル・光」どちらの線も引かれていない場合IP電話、若しくは携帯電話に頼らざるを得ず、従来の黒電話は恐らく使用出来なくなるであろうし、どちらにしろ通信状態は悪化する。 この部分に関して、孫氏の「光の道」が実現すれば田舎のおじいちゃんやおばあちゃんは喜ぶであろうが、私としてはIP電話や携帯で問題ないという見解だ。 以上が今回の議論の、かなり表面的な部分である。 では実際皆さんはどこで議論されているかというお話し。 ■「光の道派」と「電波の道派」の本質的な違い そもそも「光の道 vs.電波の道」という構図にするから物事の本質が見え辛くなってしまっている。 今回の議論は【光か電波か?】ではなく、【ネット網を強制的に敷くか市場に任せるか?】が正しい。 それぞれの主張やメリットを以下にまとめる。 ◆光の道(国家主導型) ・国を挙げて全世帯一世に敷設する事に依る、コスト・作業の低減 ・インフラが整った上で見えてくるサービス まずコスト面だが、孫氏の提示されたものを借りれば、光回線を一斉に敷くことに依り、一戸当たり12万円の費用が掛かるところを3万円に抑える事が出来るとのこと。確かに工事数日後、光回線を希望する隣の住宅へ再度工事に向かうのは無駄であり、コスト削減に繋がる事は容易に想像出来る。 また恐らく孫氏が考えられる最も重要な部分として、インフラが整う事に依り、新たなサービスが産み出されるという可能性が挙げられるだろう。 例えば私は田舎の出身だが、大自然の中での作業環境の提供等がそれに当たる。孫氏が主張されるように電子教科書等の普及も促進され易い。 ◆電波の道(国民主導型) ・国民が必要と思うサービスを選択出来る場の提供 一応触れておくと(上でも言及したが)、コストに関してはこちらの主張の方が圧倒的に有利と推察する。そもそも離島に海底ケーブルを引く手間が掛からない時点でそれは明らかだ。 重要なのはサービスを国民が選べるという点。 池田氏は何も電波を主体として推し進めると言われているわけではなく、『そちらの方が需要が高いだろうから、市場に任せれば最終的には国民はそちらを選ぶ方が多くなるだろう。そのために電波帯域に関しては今の内から議論すべきだろう。』と仰っておられる。 佐々木氏が孫氏と対談された際、何度も「プラットフォーム」について言及されていた事が非常に印象的だった。 私はそもそも今回の対談前に、佐々木氏は「光の道」に反対ではないのでは?仰る事はもっともだが、皆が利用したいサービスが"そこにあれば"、その後「光の道」を敷くことへの反論にならないのでは?と疑問であった。 事実それは当たっており、今回の対談でも《光の道に》反論されたわけではない。 それではどうして佐々木氏は「ソフトバンクの光の道に全面的に反論する」というタイトルのエントリをお書きになったのだろう。その誤解は私の「電波の道」に対する認識の誤りから来ていた。 池田氏も佐々木氏も(加えて恐らく堀江氏も)、「電波か光か」などとは最初から考えられておられない。仮に最終的に電波となるにせよ、それは国民一人一人が選べば良い事であって、わざわざ国が強制する必要はない。 普及率を取り上げておられたのもプラットフォームに関して言及されたのも、現在それを欲しいと思う人がいないだけであって、それさえ出来れば強制せずともブロードバンドは普及するのだ。 というわけで私が前回までベターと思っていた【現在光の線が届いている90%世帯には光を普及させ、残りの10%世帯は無線でカヴァーする】は、そもそも検討違いも甚だしい。 池田氏には何度も『トラフィックの問題についてどうお考えですか?』等と伺ってしまい、大変ご迷惑をお掛けした。この場を借りて謝りたい。 最後に、私なりに2つの「道」の違いをまとめて終わりにしたい。 ◇光の道 それは100%でなければ意味がない。 例えば飛行機があるから我々は『空を飛べる』と確信出来るように、インフラがあるからこそ想像出来るサービスもあると思う。 供給を与えて、需要を創出する。 ◇電波の道 それは強制してはならず、競争の中にあって初めて息をするもの。 人々が欲しいと思うからこそそれは選ばれ、その際それが光であっても構わない。但し、人が選択出来るよう準備をしておく事が大切である。 需要を受けて、供給が競い合う。 どちらも明らかに「全米ブロードバンド計画」に影響されている。そしてやらなければならない事があるのに立ち止まるのは無駄である。 より早く普及出来るのは前者であろうが、それは将来我々に負の遺産を残す可能性も孕んでいる。 どちらが良いとは言えない。正解は【どちらも良い】のだ。 今後の両者の議論に期待する。 |
と、大袈裟なタイトルを付けてはみたものの、僕自身まだ十分に理解出来てない部分がある。
僕の認識下のソーシャルネットワークシステム(以下、SNS)の利点とは、よく言われている双方向通信に依る恩恵だろう。 発信だけでなく受信も可能になる事で、例えば自身のブログの誤りや、更に詳細な情報を閲覧者から提供される。 そのまま削除→修正しても良いが、どこに誤りがあったかを残すことに依って、同じ考えを持っていた人も「見るだけで」管理人と同様に成長する事が出来る。 wikipediaはその最終形に近いモノではあるが、やはり管理人がいないため、どうしても感情というものはそこから感じ取ることが難しくなる。それに依って上で述べた一緒に成長しようという試みは、誤った文章と共に削除されてしまう。取り扱う情報の範囲が広過ぎるという難点もある。 そういった意味で、僕はやはりブログに大変な可能性を感じている。 twitterは素晴らしいがその機能(140文字以内)故、TL(タイムライン)が無限に広がり、果たして人々がどの様に議論してきたかを追う事が面倒に感じられてしまう。 twitterとブログは別のモノと見るのが正しい。 ブログというのはまさに研究者向けのツールだ。 まず自身の発信があり、それに対して反論が(世に声が届けば)ある。自己研磨を怠らない方であればその反論を検証するだろうし、それが自身にとって有益なものであれば取り込む事が出来る。 そうして一つのページが改良に改良を重ねられ、やがて当初思いもよらなかった魅力的なページに仕上がるのである。 しかしここで、残念な状況と残念な機能がある。 どうでも良いコメントと感情を大にした誹謗中傷、そしてコメントを管理人の手で抹消出来る機能である。 ・どうでも良いコメント 基本的に無視すればよいのだが、それが多くなればなるほど後の議論に支障をきたす。要は見栄えが悪くなるのだ。モチベーションの略奪と言っても良い。 また書き込んだ本人が意図しなくとも、後に訪問したものを惑わすコメントに仕上がってしまう事もある。これはどうでも良いコメントとはまた別物だが、それがあまりに多くなってしまうと管理人はそれらへの対処を放棄してしまう。 しかし中には笑顔を誘うようなものもあり、単純にそれらが要らない物とは言えない。 ・感情を大にした誹謗中傷 こちらも中には笑顔を誘うものもあるが、大抵がたっぷりの皮肉を纏っているため笑えないものが多い。 感情を大にしたコメントは見苦しいものがあるが、それは意見の食い違いから訴えかけた結果に依るものが比較的多いため、僕自身はそれほど悪いものと認識してない。 最も性質が悪いのは、感情は表に出さず、しかし語気だけは激しい類のものである。これは本当にデータの妨害でしかない。 (ここから今回最も述べたい部分) ・コメントを抹消出来る機能 そして上の2つを受けて、ついにSNSの恩恵を放棄するこちらの機能が産み出された。 僕は、コメントを削除してる管理人は一体何がしたいのかと思ってしまう。それなら最初から新聞にでも寄稿すれば良い。そのスタイルを続ける方は一部を除き恐らくかなりの自信家だと思うが、あなたの発信した情報がいつまでも正しいとは限らない。 そこには『オレは知ってる』、『コレを読め』というものしかなく、「ここはこうした方が良い」という言葉は存在意義を無くしてしまう。それ程正しい情報なら、新聞掲載にトライする事も可能だろう。 最もショックだったのは、以前のエントリに記述したが、池田信夫さんのブログの一連の流れだった。 もちろんコメントを削除するかどうかは管理人の自由だし、削除すべきコメントは実際多い。しかし僕が目の当たりにしたのはそれとはまた別の光景だった。 彼は自身のエントリに対する反論を削除した。 しかしただ削除しただけではなく、反論に対するコメントを一度挟み、更にそれに対する反論を受けた後、最初のコメントも含め削除したのである。 そのときの内容を詳しく憶えていないため池田さんに対しても本当に申し訳ないが、反論自体は彼を認めつつもココは違いませんかというもので、誹謗中傷の類とは全くフィールドの違うものだと認識した。 そもそも削除するなら第一段階で削除すべきであり、それにコメントしたという事はその段階では議論する価値のあるものであったという事である。 彼等アルファブロガーは(恐らくとしか言いようが無いが)忙しい。実際コメントも殆ど"視れて"いないだろう。 池田さんのブログの素晴らしいところは、出発点が高い。つまりコメント欄が他のものと比べあまり重要ではないという事だ。 しかしだからこそそれを更に高める事の出来る貴重な反論は残して頂きたいし、現在の様に"追従者のみのコメント欄"を見ると、『あ~このブログには本当にコメント欄は必要ないんだな』と思ってしまう。 コメント欄が必要無いという事は、少なくともその範囲内ではSNSという言葉は存在しない。 そして僕はほぼどんな事にも言えると信じているが、どんなに出発点が高くても原点というものが存在する。そしてその原点が揺さぶられれば、高い位置ほど大きく揺れるのだ。 どんな理論だって見る人・見せ方を変えれば反論が生まれる。常に自分の主張に対しては、その瞬間瞬間で原点を振り返る事が大切である。 とは言っても彼のブログは文章構成・フォントなど、本当に読み手の事を考えて作られており学ぶべき部分が沢山ある。 本当にそれだけ読んでいれば大丈夫かなと、錯覚させるほどの内容もある。 だからこそ最後に「SNSの可能性」として声を大にして叫んでおくが、そんな素晴らしいブログでも必ず超える事が出来る!! 僕はそれがSNSを受け入れたモノと拒絶したモノの、決定的な差となると確信している。 一つの事に集中した人間の力は、計り知れないものになるだろう。 ※追記 ど~も最近池田さんに批判的になっていけないが、僕が目にした光景はかなり稀だったのかもしれない。彼に対して批判的なスレッドが(まぁ、沢山…)立っており、それに感化された可能性は否めない。 最近のブログでは反論も載せられているし、彼はその文体から誤解され易い可能性も高い。 少し過剰な反応をしてしまった事をここにお詫びする。 でもソーシャルの可能性についての見解を、曲げるつもりはない。 |
僕がコレを執筆してる現在、ソフトバンクの孫正義氏 @masason と、ジャーナリストの佐々木俊尚氏 @sasakitoshinao が激論を交わしている事だろう。
ウズベキスタンではUstreamなんて視聴できない(-_-) お二人がお話しされた内容と被っている、若しくは大きく外れていたら誠に申し訳ない。 光の道に関しては前回も記事に挙げたが、そちらを受けての今回というよりは、方向としては僕の中でかなり変わりつつある。 そのキッカケとなったのは、前回の記事内「追記」に記載したトラフィックの問題だ。 この部分に関して僕は詳しくないのだが、無線では大容量のデータが大多数から送受信される環境には耐えられないとの事。 もう一度自分の中で整理してみると、自分としては次の順序がベターかと思う。 1.光の線を全国に敷設 2.無線のトラフィック問題など、技術的に進歩させる 1に関しては、孫さんの言うように差し引きコスト0というのは、左程重要ではないと思っている。(もちろん全くのデタラメでめっちゃお金かかっちゃいましたー、はシャレにならないが・・・) どうせ将来のために敷くのだから、多少の身を削っても致し方ないだろう。むしろこれは、孫さんの案に乗った人が言い訳出来るようにするため用意されたものと感じる。 しかし100Mbpsしか出ない光ファイバーの敷設だけは勘弁してもらいたい。最低でも1Gbpsまでは対応可能でなければ、僕も孫さんの案には乗る事が出来ない。 2だが、これは僕の理想に基づくものだ。 何度も言っているが、ネットインフラの最終形はどこでも繋がる無線でなくてはならないと思っている。一部が回線の安定と速度を求めケーブルを使用したとしても、大多数の未来は無線、若しくはそれに代わるものでなければならない。 それは単純に、便利だから。 僕は今回孫さんの案に反論する方々の心理に、そうした最終形が見えてるにも関わらず「今更有線かよ」というジレンマがあると思えてならない。正直僕もそれは感じている。 無線は一気に大多数に広げる事が出来る。中心から360度広がっていくイメージさえ描ければ、それは当然だと理解出来る。 しかし、無線ではトラフィックをうまく受け流す事が出来ない。 「大多数」という目的語に対して、最大の強みと弱みを抱えてしまっているのだ。 インフラにおいて、使い物にならないは通らない。今の状態では、無線はまさに蛇口はあるが水が出ないという状態に限りなく近くなってしまうだろう。 だから僕は、(こういうと失礼だが)仕方なく孫さんの案に乗る。孫さんももしかしたら同じジレンマを抱えられているかもしれない。 無線派の方は孫さんの案がどうとか言う前に、まずトラフィックの問題を認めた上で、それをどう解決するか話し合った方が7万倍マシだ。 もう電波利権がどうとかいう話しは聞き飽きた。 世界はこれだけ便利になったんだから、僕はデータの送受信に耐えれない無線の状態が、未来永劫続くとは信じれない。 そしてそこにこそ、技術屋のイノベーションの入り口があるのだろう。 最後に佐々木さんのポジションだが、彼は特に「無線派」というワケでは無さそうだ。 ・ソフトバンクの「光の道」論に全面反論する(上) ・ソフトバンクの「光の道」論に全面反論する(下) この中で最も強く主張されているのは、 『いくら過疎地に光が敷かれても、そこの方たちが「ブロードバンドを利用したいと思う何か」がないから無理矢理敷設する事は無駄である。』 と、僕は解釈した。 確かに仰る事は最もだが、それって光100%案の反論になってないのではなかろうか?そもそもその「何か」が産み出されたら、光回線引いてもいいってことになると思う。そしてその何かは産み出されなければならないし、そもそも世代が交代すればネットに精通する老人も自然と増加するから、いずれは解決するだろう。 だから僕は今回の討論は、それほどカチッと噛み合わないと思っている。ちょうど今終わったようだが・・・ 恐らく佐々木さんは臨機応変に対応するだろうが、無線派というワケではない彼が、決定打を持って来れるとは考え辛い。 実は僕は、本日議論の前のお2人にtwitter上で語り掛けた。一度ずつしかツイートしなかったし、勿論華麗にスルー…(-_-) 目的は討論する前に考え直して貰いたかったからだ。ぶっ壊したかったと言い換えても良い。 昨日初めて今夜の討論を知り、本日の朝まではとても楽しみにしていた。多くの方がワクワクしているだろうと思っていた。 しかし、そもそも討論する意味はあるのだろうか? それは格闘技の様に、どっちが勝つか負けるか、明らかに見世物になってしまっている。勿論それは楽しい事だけど、無責任だ。止めれるもんなら小さな争いも戦争も止めた方が良い。 そらのさん @ksorano が主張される様に、双方向の配信ならそれは意義があると思っていた。でもそうでないなら通常ニコ生等で放送すべきだし、もっと言えば居酒屋でビデオカメラ持って話してても良い。 今回孫さんと佐々木さんと同様に、そらのさんは完全に主役の一人だったと思う。とても感動した。 と、ずらずら述べたが、まぁ楽しみな事は変わらないし、どなたかが文字に起こしてくれるのを首を長くして待っている(^^) そらのさんもタダでは転ばないとTLで言っていたし、今後の動向に注目だ。 ※追記 孫さんのtweetで以下の資料を目にした。 光の道の実現に向けて http://www.softbank.co.jp/ja/irinfo/shared/data/announce/20100513_02.pdf これに依ると、まず1Gbpsの速度は選択出来そうで安心した(*^^*) また昨日の討論の全内容はまだ把握してないが、佐々木さんが仰っていた事は確かに光の道への反論となっていたので紹介させて頂く。 彼によれば、「ネットはテキスト文化だから、孫さんが心配するほどデータがやり取りされる事は無い」というようなもの。 もしその通りなら、無線のトラフィック問題が解決、もしくは和らぐという事になる。上のPDF内でも今後どれほどデータ通信量が増えるか言及されているが、忙しいビジネスマンや比較的若い世代は、意外とテキストだけで情報を収集している。僕もウズベキスタンで映像視聴はほぼ不可能だが、それほど困った事はない。 映像等のリッチコンテンツは子供・お年寄りに求めら易く、今話題の電子書籍登場に依る出版社ではないが、20~40代は「中抜き」状態となる。それらも踏まえた上で、果たして今後どの程度データの通信量が増えるのか?をもう一度検討しなければならない。 一人当たりデータ通信量は増えても、人口もまた減るのだから。 |
今回は触らぬ神に触れてみようと思う。
恐らくこのテーマは、深い知識のある人や彼等を取り巻く環境を専門とする人以外は、なかなか触れたがらないだろう。 一種の「タブー」と言ってもよい。 五体満足で彼等のためとなる様な案を出せば「偽善」と言われるし、逆に差別用語でもないのに「身体障害者」と書けば「差別」と認識される。 僕は「身体障害者」を差別用語と思っていなかったため、始めの内はそれをタイトルにするつもりだったが、やはりそこから無言のメッセージを受けたので変更した。 その姿勢が差別と言われる方もいるが、それを言い出すとキリがないので「そういうもの」だとして置いておこうと思う。 さて、では何故わざわざそこに触れようと思ったかだが、それはウズベキスタンと日本の環境の違いに触発されたためである。 医療環境が整っていないという原因もあるだろうが、ウズベキスタンでは身体障害者の方を街中でよく見掛ける。単に「骨折した若者」という場合もあるが、日本では右手を首から吊って街を闊歩する若者なんて、それ程多くは見掛けない。 もちろんウズベキスタンでも、人々が頻繁に骨折するなんてことはないから同様のことは言えるのだけど、それにしても目にする機会は多いと思う。 また右足を切断された方や、両足を持たず車椅子で外出される方などもよく見掛ける。 右手を吊った若者は対象外だが、車椅子で外出される方の多くは施しを受けるため外出される方が多い。 僕はこちらではジプシーと言われる、五体満足で路上に座り込み、人々が目の前を通るとお金を要求する人々には殆どお金を渡す事はないが、身体障害者の方がそれを求めて来た場合は、少額だがお金を渡す事にしている。 これは友人の姿に共感したためだ。そこには「偽善」を挟む余地もなかったし、ウズベクの人々は日本と比較した場合それを当たり前に実行する。 どうしてその違いが起こるのだろう? 僕はこれまでの文化、宗教が深く関わっていると推察する。 困った人がいたら助ける。 これはこの国では、僕はもう何度も「見せられて」きた。 日本では女子高生に当たるかわいいロシア人の女の子が、地下鉄でお年寄りに席を譲るのだ。 僕が目にしたその子は遠慮する老人に執拗に席を譲り、そして目的を果たした。日本なら一年に何回それを目に出来るだろうか。 一瞬で恋をしてしまいそうな光景だった。 またもう一点。 先に「車椅子で外出される方の多くは施しを受けるため…」と述べたが、欲しい物を欲しいと言える環境が整っているという事だろう。 日本で外を歩いていて、果たして一日何回『お金を恵んで下さい』と言われるだろうか。 『日本だろうが欲しい物は欲しいと言えばいいじゃん?』 『そんなの自己責任でしょ?』 と言うのは良く分かる。 僕も(拭けてないけど)自分のケツは自分で拭くのが大方正しいと思う。 でも日本は圧倒的に欲しいと言い辛い環境に仕上がってしまった、というのが僕の感想だ。 それは単にギプスをはめた若者すら、日本ではあまり見掛けない事からも分かる。 日本人に多く見受けられる「恥ずかしい」という感情だ。 社会保障というシステムは、この感情を保護する意味でも日本人には打って付けのシステムだ。 集めたお金を(ちゃんと)運用する事で、ちょっと増やす事さえ出来てしまう。 しかしよくよく考えてみれば、本当に助けて欲しいと思う人が受取る事が、そもそもの目的から考えると合理的なのである。 『そんな事言うと強欲な人がお金を持って行く』と思うかもしれないが、実は「そういう人かどうか」は意外と見抜ける。 僕がジプシーと言われる人々にお金を渡さないのは、そのような理由からだ。 だが、日本でその人が本当にお金を必要としてるかどうかを見抜く事は、ハッキリ言ってかなり難しいだろう。 日本人のその部分に関するモラルは、間違いなくウズベク人より欠けている。だから隠すのが上手なのだ。 ウズベキスタンではそもそも身体障害者であったとしても、必要無い人はお金を要求して来ない。 僕はウズベキスタンに来てからかなりの時間、『どうしてこの国の人はこんなに笑顔が絶えないのだろう』と観察して来た。 現在はまだ恐らく、という段階だが、言いたい事を言える環境のせいだと感じている。 日本のように要求する事が難しい環境では、誰が何を考えているか伝わり難い。 その分確かに「空気は読める」ようになったかもしれないが、いくら読んだところで100%の確信は持てない。 そして相手が何を考えているか分からなくなると、疑いが生まれ、感情を全て解放する前に扉は閉まり、閉塞感が漂う。まさに負の感情のスパイラルだ。 お年寄に席を譲る際、『うわ~、あの人カッコ付けてる』と思われる事を気にしてイチイチ勇気がいるなんて、そもそも笑い話だ。 社会保障だけでは生活が苦しい方が、まだまだ沢山いる。 寄付をしろ。というのではなく、何年掛かるか分からないが、まずはお年寄りに席を譲ってみては如何だろうか? 砂漠にいくら水を注いでも、残るのは乾いた砂だ。先ずは環境を変えるべきだろう。 そして席を譲られた方に憶えておいて欲しいのは、 それは『当たり前』だし『誇っていい』という事だ。 |